井深梶之助 [先生]

お気に入り度 ★ 2008年5月3日撮影
所在地:福島県会津若松市「會津藩校日新館」内
会津藩校「日新館」にあった井深梶之助(いぶか・かじのすけ)の像です。
~説明版より~
井深梶之助
安政元年~昭和15年(1854~1940)
明治から昭和初期にかけて活躍した、キリスト教界の指導者。会津藩校日新館学頭・井深宅右衛門の長男として会津若松城下に生まれた。母は、会津藩家老西郷頼母近思の四女八代子。
戊辰戦争後、横浜の修文館で宣教師でもある英語教師ブラウンと出会い、明治6年(1873)に洗礼を受ける。同19年(1886)新設の明治学院神学部教授、副総理となり、同23年(1890)にはニューヨークのユニオン神学校に留学。翌年帰国し、ヘボンの後を受けて第二代明治学院総理となる。日本基督教会大会議長や日本全国基督教会同盟委員長などを歴任、キリスト教界の国際会議には日本代表として出席した。教育では、知育偏重の弊を改め、意志と情操を尊重し宗教的かつ円満な人格者の育成に努めた。また、世界人類同胞主義の立場から、第二次世界大戦には強く反対した。明治学院発行、内海健寿著「井深梶之助とその時代」全3巻には、活躍した時代背景とその業績が詳しく紹介されている。
~井深梶之助先生銅像碑文~
明治学院初代総理ヘボン博士の後を継ぎ、二代総理となられた井深梶之助先生は、1854(安政元)年、會津藩校日新館学頭井深宅右衛門の長男として生れた。母は家老西郷頼母近思の娘八代子。
日新館に学び、戊辰戦争に参戦。後、ブラウン宣教師に接してキリスト教徒となり、東京一致神学校を終了して牧師となる。米国ユニオン神学校に留学し、1891(明治24)年、明治学院総理となる。在任30年に及び学院発展の基礎を築くとともにキリスト教指導者として内外に活躍。退任後も名誉総理として活動を続け、1940(昭和15)年逝去された。
同校卒業生である福島県出身の平子義清氏は、井深先生の徳に深く感じ、東京芝白金の本校と故郷会津の日新館に彫塑家佐野文夫氏に制作を依頼銅像を寄付され、顕彰されたものである。
世界人類の平和を説かれた井深先生の像が、ご縁の深いこの地に建設されたことは、カオスの今日にあたり真に有意義であり、明治学院、平子義清氏はじめ関係各位の労に深く敬意を表するものである。
平成14年4月29日
會津藩校日新館 館長 高木厚保
寄贈 平子義清(東京都)
山崎闇齋 [先生]

お気に入り度 ★★ 2008年5月3日撮影
所在地:福島県会津若松市「會津藩校日新館」内
日新館にある山崎闇齋(やまざき・あんさい)の小さい像です。
(銅像ではありません)
日新館は会津藩の藩校のことで、
現在の施設は、昭和62年に場所を変えて復元されたものです。
“ ならぬものは ならぬのです ”
で有名な会津藩士の心得、「什の掟」をはじめ、会津気質に触れることができます。
以下説明版より
山崎闇齋(1618~1682)
京都の医者の子として生まれ、後に全国でも知られた儒学者になりました。闇齋は時の会津藩主・保科正之に招かれ、会津藩士に儒学を教えることになりました。彼の功績により、会津藩の教育水準は飛躍的に向上しました。
佐藤一斎 [先生]
お気に入り度 ★★★★ 2007年8月12日撮影
所在地:岐阜県恵那市岩村町「知新館」 平重門脇
岩村城を訪れた折に発見した佐藤一斎(さとう・いっさい)の座像です。
渡辺崋山の弟子である椿椿山が描いた「佐藤一斎自讃画像軸」をモデルにして造られたそうです。
(以下碑文より)
●佐藤一斎翁座像建立趣意
佐藤一斎翁生誕二百三十年を記念し、岩村町民をはじめ全国の六百余名の方々からの心ある浄財により之を建立する。
今日、我国の社会状況はあらゆる分野において歴史的大転換期にあり混沌と閉塞の中にある、全国民の一人一人がそれぞれの立場で分に応じ学び行動することが肝要とされる。そのためには、天理・道理を修得しそれを基として思索し行動する己が求められ、使命に生きることを強く自覚すべき時でもある。
「私欲を制し公欲を求め、恕と譲の心をもって生きなければならない。」
一斎翁は現代の我々に人づくり心そだての必要を説いている。
時あたかも衆議院本会議において小泉純一郎総理大臣は一斎翁の「言志晩録」からの三学戒の訓えを引用して教育の重要性を表明され、また、「重職心得箇条」を内閣諸大臣に示し奮起を促された。
翁の志が今に生き続けている証であり、これが縁で首相に台座の揮毫を願い完成することができた。
今後ここ岩村の地がこrを機に一斎学の学びの中心となり、その訓えを全国に発信し続ける場として翁の座像がその象徴となることを願いものである。
平成14年(2002)10月26日
佐藤一斎顕彰会
~三学戒~
少にして学べば 則ち壮にして為すこと有り壮にして学べば 則ち老いて衰えず
老にして学べば 則ち死して朽ちず
●佐藤一斎翁顕彰碑建立趣意
幕末最高の思想家佐藤一斎は「志こそが人間のレベルを決める!」といい、志を養うべきことを説き、その思想を著書「言志四録」(言志録、言志後録、言志晩録、言志耋録)などに書き残しました。
碑文の「三学戒」は言志晩録の一節で最も輝いている言葉です。
ここに全国各地300余名の賛同者の浄財により、一斎翁の「三学戒」を刻み、永く後世に伝えんとするものです。
平成8年10月19日
佐藤一斎顕彰碑建立実行委員会
座像制作:日展作家 石田昇
施工:宮沢石材店
田舎教師 〈林清三(小林秀三)〉 [先生]
お気に入り度 ★★★★ 2007年5月1日撮影
所在地: 埼玉県羽生市弥勒(羽生PA東側)国道60号沿い
自然主義文学の代表作、田山花袋の『田舎教師』の“田舎教師の像”です。
『田舎教師』は林清三という明治期の小学校教師が主人公の物語ですが、
小林秀三という実在した青年教師の日記をもとに、田山花袋が描いたものです。
コンパクトな像でした。
(以下碑文より)
「四里の道は長かった」の書き出しで始まる田山花袋の名作「田舎教師」は、羽生を舞台として展開する。
その主人公 林清三は弥勒高等小学校に勤務し、志を得ずしてこの地に没した青年教師 小林秀三がモデルである。
この像は加須市在住の彫刻家法元六郎先生の制作で、文学散歩の道しるべとしてここ田舎教師のふる里に建立する。
昭和52年5月
羽生市長 須藤忠司
下總晥一 [先生]
お気に入り度 ★★★ 2007年5月1日撮影
所在地: 埼玉県北埼玉郡大利根町・道の駅「童謡のふる里おおとね」
街灯がマイクのように見えるため、一瞬歌手かと思われたかも知れませんが、作曲家の下總晥一(しもーさ・かんいち)先生の像です。地元では「しもうさ」でなく「しもーさ」と表記しているようです。
銅像の脇には下總晥一の曲がけっこう大音量で流れる歌碑もありました。
(以下碑文より)
作曲家・音楽教育家として有名な下總皖一先生は、北埼玉郡原道村大字砂原75番地(現・大利根町)に、明治31年3月31日に生まれる。
埼玉県師範学校を経て、大正6年東京音楽学校甲種師範科(現・東京芸術大学)に入学。
卒業後、文部省在外研究員としてドイツに留学、その後、母校東京音楽学校・東京芸術大学の教授として作曲法や音楽理論を講義する。また、文部省編集の教科書の編纂に携わった。同教科書には、「たなばたさま」「はなび」「野菊」「母の歌」など多くの曲が掲載されている。
唱歌や童謡の作曲をとおして、わが国初等音楽教育に大きな功績を残した。また、全国各地の小・中・高校の校歌・応援歌を四百余り作曲しており、県内では久喜、蕨、深谷女子高校など百余校の校歌を手がけている。地元では原道音頭や原道・東両校の校歌を作曲し、生涯で作曲した曲は、三千余を数えるという。
昭和37年に64歳で他界するが、先生の歌は現在でも人の心を打ち、そのメロディは今なお歌い継がれ、多くの人々に感動を与えている。
平成10年は下總晥一先生の生誕百周年にあたり、記念事業として下總晥一先生を名誉町民に推挙し、この銅像を製作、後世にその功績を語り継ぐものである。
平成10年11月吉日
下總晥一生誕百周年記念事業推進委員会
下總晥一先生之像 制作 中島陸雄






