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松尾芭蕉(4) [俳人]

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お気に入り度 ★★           2008年5月7日撮影 


所在地:宮城県大崎市岩出山・南町商店街

 

岩出山を散策中に見つけました。芭蕉像です。

南町商店街には竹工芸館など、おしゃれなスポットがありました。

 

~以下説明板より~

おくのほそ道と岩出山

松尾芭蕉は、元禄2年(1689)3月27日(旧暦)に江戸を出発し、歌枕を訪ねる旅に向かいました。1カ月余りで現在の宮城県に入り、仙台、松島などを経て、現在の岩手県、一関、平泉に至りました。5月14日、一関を発って南下した芭蕉は、その日、ここ岩出山に宿泊し「おくのほそ道」に「南部道はるかにみやりて、岩手の里に泊る」と書き残しています。
この時、芭蕉が通ったと思われる古道が、岩出山町真山地区に残っており、現在は「国指定史跡 陸奥上街道」として整備され、いにしえを偲ぶことができます。
芭蕉に同行した門人、曾良の日記によると、14日のうちに小黒ヶ崎、美豆の小島(岩出山町と鳴子町の境)を見ようと足を進めましたが、2里(約8km)ほど先であるため、岩出山に戻り宿泊し、翌15日に訪れたことがわかります。
当時の岩出山の様子については「岩出山。やしきも町も平地。上の山は正宗の初の居城なり。杉茂り、東の方、大川なり。玉造川という。岩山なり。」と記しています。
なお、芭蕉が宿泊したのは石崎屋という旅籠で、現在の岩出山交番所付近にあったといわれています。

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伊達政宗(1) [騎馬像]

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お気に入り度 ★★★★           2008年5月7日撮影


所在地:、宮城県大崎市・有備館駅構内



個性的なデザインの伊達政宗像です。

調べてみたところ、もとは仙台駅にあり、平成20年3月16日にこちらの駅に移設されたそうです。 

 

2008年に有備館を訪れた際に撮影しましたが、3.11の震災で有備館は倒壊してしまったようです。

現存する最古の藩校とされる有備館は茅葺き書院造の建物で、庭園とともに国の史跡・名勝に指定されています。

復旧・復興を願わずにはいられません。

 

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松尾芭蕉(3) [俳人]

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お気に入り度 ★★           2008年5月4日撮影


所在地:岩手県西磐井郡平泉町・中尊寺境内




世界遺産、岩手県平泉の中尊寺にある松尾芭蕉像です。

 

奥の細道の旅に出発してから44日、芭蕉は平泉を訪れたそうです。

46才の時にこの地で詠んだのが

「 五月雨の 降残してや 光堂 」

という句です。 

 

この像は、平成元年5月13日に「奥の細道」300年を記念して建立されたようです。

 

製作:東京芸術大学 戸津圭之介

 

 

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大砲萬右衛門 [スポーツ選手]

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お気に入り度 ★★★★★           2008年5月3日撮影


所在地:福島県白石市・白石城二の丸公園


第18代横綱・大砲(おおづつ)の像です。

後ろ姿がステキです。

後ろに見えているのは白石城です。

 

 

~以下碑文より~

第18代横綱 大砲萬右衛門等寸像
(本名 角張萬治)

明治2年11月28日、父萬吉の長男として、白石市大鷹沢三沢字唐竹に生まれる。

少年のころ、60キログラムの米俵を両手に軽々と提げ町まで運び、「三沢の怪童」と呼ばれた。

明治17年、年寄尾車文五郎の門に入り、郷里の地名にちなみ、しこ名を「三澤滝」と称した。

身長198センチメートルの巨漢であった。

明治21年しこ名を「大砲」と改める。

明治34年4月3日、第18代横綱に推挙され一世を風靡した。

大正7年5月27日没す。

大砲生誕130年にあたり多くの有志とこの像を建立する。

 

平成11年11月28日

白石市長

 

制作:日本芸術院会員 中村晋也

題字:白石市長 川井貞一

有志:社団法人白石青年会議所/白石商工会議所青年部/大砲会/白石市自治会連合会大鷹沢支部

 

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井深梶之助 [先生]

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お気に入り度 ★               2008年5月3日撮影


所在地:福島県会津若松市「會津藩校日新館」内


会津藩校「日新館」にあった井深梶之助(いぶか・かじのすけ)の像です。

 

 

~説明版より~

井深梶之助
安政元年~昭和15年(1854~1940)

明治から昭和初期にかけて活躍した、キリスト教界の指導者。会津藩校日新館学頭・井深宅右衛門の長男として会津若松城下に生まれた。母は、会津藩家老西郷頼母近思の四女八代子。
戊辰戦争後、横浜の修文館で宣教師でもある英語教師ブラウンと出会い、明治6年(1873)に洗礼を受ける。同19年(1886)新設の明治学院神学部教授、副総理となり、同23年(1890)にはニューヨークのユニオン神学校に留学。翌年帰国し、ヘボンの後を受けて第二代明治学院総理となる。日本基督教会大会議長や日本全国基督教会同盟委員長などを歴任、キリスト教界の国際会議には日本代表として出席した。教育では、知育偏重の弊を改め、意志と情操を尊重し宗教的かつ円満な人格者の育成に努めた。また、世界人類同胞主義の立場から、第二次世界大戦には強く反対した。明治学院発行、内海健寿著「井深梶之助とその時代」全3巻には、活躍した時代背景とその業績が詳しく紹介されている。

 

 

~井深梶之助先生銅像碑文~

明治学院初代総理ヘボン博士の後を継ぎ、二代総理となられた井深梶之助先生は、1854(安政元)年、會津藩校日新館学頭井深宅右衛門の長男として生れた。母は家老西郷頼母近思の娘八代子。
日新館に学び、戊辰戦争に参戦。後、ブラウン宣教師に接してキリスト教徒となり、東京一致神学校を終了して牧師となる。米国ユニオン神学校に留学し、1891(明治24)年、明治学院総理となる。在任30年に及び学院発展の基礎を築くとともにキリスト教指導者として内外に活躍。退任後も名誉総理として活動を続け、1940(昭和15)年逝去された。
同校卒業生である福島県出身の平子義清氏は、井深先生の徳に深く感じ、東京芝白金の本校と故郷会津の日新館に彫塑家佐野文夫氏に制作を依頼銅像を寄付され、顕彰されたものである。
世界人類の平和を説かれた井深先生の像が、ご縁の深いこの地に建設されたことは、カオスの今日にあたり真に有意義であり、明治学院、平子義清氏はじめ関係各位の労に深く敬意を表するものである。
平成14年4月29日
會津藩校日新館 館長 高木厚保


 

寄贈 平子義清(東京都)

 

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